私と空手 その2

次の一文は、武蔵工大空手道部「創部30周年記念誌」(昭和55年5月発刊)に私が書いたものから抜粋しまし

た。



「全国大会が始まった頃」


試合化される以前の練習

私が入学後入部した昭和三十一年頃の師範は、実戦空手で鍛えられた精悍な島崎さんでしたが、年に二・
三回しかお見えにならず、常の練習は、主に四年生が主体になって先輩が指導しておられました。(主将
は田辺先輩)対外試合は一切なく、外部との接触ぱ同じ糸東流仲問の青山学院と年一回交換練習をしており
一年生の時一回だけ青学へ出向いて練習しました。交換練習はこの時までで、青学空手部が次の年に
四谷の空手協会へ加人したため交換中止となったようです。(当部ばもうしぱらく糸東流のままで後にやは
り協会に入会する事となります。)
尚、私の入学前までは日大獣医学部とも同じような交流があったそうです。


このように内々だけで練習しており、まして他校との試合と云うものがなかったので組手も各自各様で大変
個性のある構え方でやっていました。ところが、昭和三十二年の二年生の時に全国の大学空手界を流派に
かかわらず大合同して、他のスポーツのように、試合化して全国大会をやろうと云う話が、日大、明大
(共に和道流だったと思う)あたりが中心となって出て来て、当部も参加を前提に四年生の中村主将、水田
副主将が会合に出て、組手試合のルール等を聞いて来られて私共に説明されました。
日頃の練習では横に構えて足刀の横蹴りを多用していましたが、それでばダメで正面に構えて逆突きで決
めないとダメだと云っておられました。

初めての試合の頃

いよいよ三十二年に第一回の全国選手権大会が代々木で開かれることになり、他流試合が初めてのため
緊張して出ましたが、一回戦は芝工大に勝ち、二回戦で日大に敗けました。この試合で中村先輩が二回戦共、
相手の顔面へ強烈な一本を入れる反則で負け、初めての試合で勝手がわからずと云う感じでした。
次いで三十三年には春に関東選手権大会を、秋には全国大会をするようになり、第一回関東選手権大会が
開催される事となりましたが、それを間近かに控えて四年生の菊地主将と部室で、試合後の慰労会は、
一回戦で負けたら学校の食堂で、二回戦ならどこで、何回戦なら自由ケ丘、準決勝なら何処で、等々会場の
格を上げる冗談話をしていました。所が、いざ試合になったらどんどん勝ち進んで行き、何と準々決勝戦も
勝ち、とうとう準決勝まで残ってしまいました。
そうすると慰労会は自由ケ丘の何とか云う立派な割烹料理屋でしなけれぱならず、資金はないし(いつも皆ん
なピーピーだった)、菊地先輩と、さて困った困ったと云いながら試合にのぞみました。

結果は準決勝で負け、三位決定戦で日大に負けて第四位となりましたが、この試合で私の同輩の神代君が前歯
を三本折ると云う大ケガをしました。私はたしか副将で出ましたが、やはりアゴ(チン)に突きを受け一瞬意識
不明となり気が付いたら片膝を着いておりました。それでもこの反則で、引き分けました。
前年の日大との試合で中村先輩の一撃の件があり、向こうが怨みを持っていたかも知れ言せん。ただ神代君の
名誉のために書いておきますが、彼はその後四年生になってからは全ての試合に勝ち星を取っているはずで、
試合度胸満点の名選手でした。
この時の何回戦かの折、国学院大学との対戦で菊地主将の大将戦が終っても勝ち星同数で、勝負が決まらず
代表決定戦となった折、菊地先輩が試合後、ハーハー息をはづませながら「外山、お前やれ」と云われたの
を今でも昨日のように憶えています。幸い判定か合せ技かで勝ち、勝ち進むことが出来ました。

この年の秋の第二回全国大会は大阪の南の体育館でしたが、この時から東西対航と個人戦が始まり、当校は関東
選手権の成績で、二名選抜され菊地先輩と私が出る事となりました。
東軍のメンバー順を決めるチーム編成のため先輩と二人で東大の体育館へ行き、実力を調べるための練習試合を
させられましたが、この時、拓大(当時最強校だった)に小野(三年)と云う猛牛のような強い選手がいて菊地先輩
がこの人と組手をやり、思い切り投げ飛ぱした所(菊地先輩は高校時代柔道をやっていた)、相手がおこった物凄い
攻撃で、帰り路先輩が胸をはだけて見せると前蹴りのあとが、胸に無数に赤くはれて残っていました。
東西対抗では、私ははじめて関西の選手と試合をし、袖をつかまれて、勝手が違い実力を出せずに負けました。
今では試合は日常茶飯事でしょうが、師範も来ない内々だけで練習していた私共にとって始めの頃はトマドった
ものでした。それでも第一回関東選手権の成績ば日頃の練習の成果であったと思います。

合宿の事など

一年生(昭和31年)の秋、長野県の浅間温泉に合宿の折、最後
の日の宴会後、街へ行こうとしたら、河村先輩(四年生)が
「これからケンカをやりに行くからお前達付いて来い。」と
云います。
こっちは一年生で、強くないのですが、気ばかりは強がって
いた頃ですから喜んで付いて行くと、どこかの大学のラクビ
ー部かが他の旅館で合宿しており、その前に行って先輩がど
なりました。
「おーい、俺達はムサコー(武蔵工)の空手部だが、後輩がお
前の所の奴に因縁を付けられたと云って来た。相手になっ
てやる!!出て来い!!」と大音丈です。(もちろんウソなん
ですが・・・)
無茶な話ですが、私達は先輩の後ろで、腕をさすって待って
いましたが、結局、主将らしい男が窓から顔を出して、ハッ
キリと、しかも丁重に「私共には因縁を付けたりする者はい
ません。何かのお間違いでしょう。」と云って断って来まし
た。

次は三年生(三十三年)の秋の合宿の折に、東急の伊豆半島の
旅館へ行った時の事です。やはり最終日の宴会後、海岸の砂
浜でキャンブファイヤーをやり流木に火を付けて燃やしなが
ら廻りを裸で歌って踊ったのです。高い崖の下で、廻りには人
家がありませんし見えるものと云えば沖合に魚でも取ってい
るのでしょうか、舟の灯がぼつぼつと見える他は空に輝く星
だけです。烈しかった合宿練習の後の開放感から、誰ともなく素裸になり、やがて全員がそうなった
のです。(当然ブラブラするのも全部出ました。)
もし他人が見たらさぞかし荘観だったと思いました。
さて翌朝帰る事となりバス停で時問待ちの間、店をひやかしていたら、奥さん連中や、うら若き女子
までが私達を指差して何やらヒソヒソと話をしているではないですか、聞くとはなしに耳に入った
のは「ホラ、昨夜、浜で裸で踊っていたのは、この人達よ・・・。」ですって
どうやら、一部始終を全部見られていた様子でした。

現在の事等

その後、私はもう早いもので二十年間も家業の金物卸業を営んでいますが儲けるのが下手で暇もなく、
商売上東京へ行く事もなく学校とも空手とも離れており(唯、昔の仲間との年賀状のやりとりば続いてい
ます。)いつの間にか頭が膝にも着かない程、身体も竪くなっていました。五十三年十月に「地上最強の
空手」と云う映画のテレビ放映を見てから考えなおして、昔の体力の何分の一でもと思い毎朝十分程柔
軟体操と足を上げる練習を始め、わずかな時間ですが毎日続けて一年以上やりましたら、最近は体重も
減り体調も少しづつ良くなり、昔の力には、はるか及ぱないでしょうが、短時間なら組手も出来るかな
と思っている今日この頃です。

これからも昔を思い出しながら柔軟体操とシヤドー組手を続ける積りで、いずれ現役選手と組手をやり
に行くのを楽しみにしています。
最後に、一々名前を書けないのが残念ですが多くのお世話になった先輩や兄弟みたいな同輩、一緒にや
った後輩の皆さんのご健康を祈りつつ筆をおきます。(昭和55年1月27日記)

後記
その後、歳を取りましたので、蹴りをニ三日続けてやればふらはぎが痙攣を起こすし、体力的に練習は
無理かと思っていました。
一昨年(平成11年)の11月に、冬虫夏草茶に出会ってからそれを毎日飲んでいたら、疲労回復に効果があ
ることが解りまして、この調子だとまた、練習が出来そうだと思い、依頼、毎日、蹴りをし始めて、
一年半以上続いており若返っています。
お陰で、柔軟体操はしていませんが、何時でも直立して両手が床にピタリと着きます。
健康が許す限り、練習を続ける積りです。(平成13年6月23日記・現在63歳)



更に、その後
練習の時に最初にやる「その場突き」を30から40回、更に前蹴りを20本以上を毎日するようにしています。
・・・、本来なまけ者のため、時々、サボりますが・・・、それでも学校に行ったら短時間なら組み手も
出来るのでないかと思っています。(平成20年7月20日記・現在70歳)


更にその後2、毎日のその場突きは60回、前蹴りは30回になっています。体重はやや減り気味で72kg、
健康には注意しており、脚が吊ることもほとんどありません。(平成24年8月21日記・現在74歳)

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