私と空手 その1

1 いじめ

小学校低学年の時、終戦直後で家業は休止していました。そもそも物が無い時代でした。
当時着ていた洋服は、学校にも、母が古生地を加工した洋服を着て行っていました。
新しい学生服を来ていた者が多いのに、みんなと違う洋服を着ていることが気になって
なりませんでした。

「僕も学生服を着たいよう。」と、度々、母に言っていたら、ある時、母にキツク言わ
れました。
「男は着るものなんかに文句を言うんじゃない。中身で勝負しなさい。」
その時は、とても不満に感じましたが、私は元々単純な性格でしたので、段々そんなもの
かと思うようになったようです。

そうして、やがて、着る物には、全く気を使わないようになりました。(もともと不精者
だったせいもあるかも知れません)
その後は、例えば多感な思春期の頃も、着る物に気を配った覚えは全くありません。

それでは、中身の方はどうかと言えば、子供の時から話し下手で、人と話しをすれば、
直ぐ顔が赤くなるし、標準語はよく話せないし、考えを上手に表現出来ない子供でした。
更に、社交性はなく、小太りだったので体育は苦手だし・・・、将来を考えると、とても世間
で勝負出来る状況ではないと感じていました。

それで、心の中では、ずっーと、そんな自分を何とかしなければと考えていたんです。
そのためには、何か厳しいスポーツをして、自分の根性を叩きなおさねばと思うように
なっていました。

また、私は本当は4月の初めに生まれたそうですが、生まれた時に体が大きかったので両親
が、少しでも早く成長させたかったそうで、3/28に生まれたこととして届けたんだそうです。
そのためもありますが、小学校一年の時、同級生に比べて、体だけは大きいけど子供っぽ
かったようです。
実は、今、思い出しても、そう感じますし・・・、その後、自分に全く自信を持てなかった
一因でもあったかと思います。

一年生の時、クラスのFと言う暴れん坊にしばらくいじめられました。
休み時間になると、必ず、運動場の片隅で仰向けにされて、彼が上に載っていたんです。
(要するに、私は体は大きいだけど、体力は無かったんです)
ある時、下敷きにされているのが我慢出来なくて、下から両手で彼の顔を引っ掻き回し
たんです。そうしたら、たまたま両手の親指が彼の口に嵌って両側に引っ張るような形に
なったんです。
彼は泣き出して、この反撃のお陰で、その後、彼のいじめはなくなりまました。

 当時、学校に行く時に、町内の学生が低学年を先頭にして、全員が二列に並んで行って
 いました。
 F君の町内は団結が強かったようで、その後、ある休み時間の時のことです。
 彼の町内の全員が横に一列に並んで、私をにらみ付けていました。コワカッタ・・・。

このいじめに逢ったことで、強いことにあこがれるようになったのかも知れません。

この時のFとは中学校三年の時、また同じくクラスになりますが、その時は私の方が背が
高く大きかったし、体力も付いていましたが、極く普通にお付き合いをしていました。
また、彼は、後に、中学が同期性だったジャイアント馬場の一番の親友になるんです。

また、Fとは後日談があります。
彼は、同級会屋と言われるほど、同級会が大好きで、街で会うと必ず
「外山、同級会やろうや・・・。」と声を掛けて来るんですが、多分、同級生みんなに
同じように話しかけていたと思います。
それだけ、みんなに知られていた男でしたし、誰にでも声を掛ける人気者でもありました。

今から、随分前、50歳頃の中学三年生の同級会の時のことでした。

みんなで近くの温泉に泊りがけで出掛けましたが、その時、Fと同室で6人ほどで、寝る前の
一時を布団に入ったままで話をしていました。
Fが「今の子供達は、いじめがあって大変だよなあ。俺達の頃には、いじめなんてなかったよ
なあ。」と言います。
私は、はじめは聞き流していたんですが、彼が何回も何回も同じことを繰り返して言います。
つい、我慢出来なくなって
 「お前、そんなかっこいいことを言うなよ。俺はお前にいじめらたよ。」
彼「俺はいじめていない。」
 「何言ってんだ。いじめられた本人が言ってんだから間違いないだろう。」
などの会話がありました。

この時、万が一喧嘩になっても、酒の勢いもありましたが私の方が遥かに強いという自信が
ありましたので、私はその後、間もなく眠りについてぐっすり眠りした。
彼は、恐らく、寝つきが悪かっただろうと想像しています。

2 高校では柔道部

私と同じ町内に一年上の従兄弟がいて、ほとんど兄弟のようにして育ちました。
中学生の頃、彼と二人で、よく、柔道をして強くなりたいと話していました。
彼は高校へ入るとすぐ柔道部に入り、私も1年後、入学と同時にに入部しました。

ところが、理想は高い癖に、本来は怠け者なものですから、練習はサボってばかりいました。
それでは強くなるはづはなく、いつも、心には、これではダメだと思っていました。
また、当時の柔道部が大変民主的?な運動部でして・・、いくら休んでも、文句を言われな
かったので、サボってばかりおり、実の処、心の中では、何時も反省していた次第です。
(ただ、柔道初段にはなりました)

高校時代に暫くの間、文学少年をしました。その時に読んだドストェフスキーの「白痴」と
いう小説に、確か「凡人とは、自分が平凡だと知っていて、何とかしなければならないと思いな
がら、何も出来ない人のことである。」と書いてあったんです。
当時、これは俺のことのようだと自問したものでした。

3 大学で空手部を選んだ理由

自分では、これでは駄目だと思っていたので、大学へ行ったら、サボったらリンチを受けるくらい
恐ろしい位の運動部に入り、そこで徹底的に鍛えてもらわないと、男として、あまりに情けないと
考えるようになりました。
それで、当時は、神秘的な雰囲気があり、運動部では一番恐そうな空手部に入ることにしました。

父は、私が家業の金物問屋を継ぐ立場なので大学は必要ないと言いましたが、本来、私は理系
だったので工学部を選び、ただ、本当は学部はどこでもよく、兎に角、空手部のある大学へ行き
たくて、入学案内書では工学部の他に、そればかり調べて学校を選びました。

4 大学の空手部生活

武蔵工大へ入ったら、一番最初に、空手部の練習場へ行きました。
丁度、4年生が3年生を叱っているところで、4年生が3年生の胸座を掴んで、壁際に押し付けて、
「この野郎。そんな積もりでお前らに空手を教えているんじゃないぞ。」
と言いながら怒鳴りつけているところでした。どうも、道場の掃除が不十分だったことを責めている
ようでした・・・。

怖そうな先輩を見て、ビビリましたが、いや、俺は根がアマいから、これくらいが丁度良いんだと
自分に言い聞かせました。
そして、空手部に入りました。そして、その後です。
どうせ大学を出ても家業の金物屋を継ぐのだからと、都合の良い理由を付けて、勉強そっちのけで、
空手ばかりしていたんです。

学業の方は、2年までの教養過程は、高校時代の延長線上の勉強でしたのでサボっても、試験の前
一週間位からの一夜漬けで、そこそこ良い点を取りましたが、(成績表を取ったら、クラスでも上位
でした)それで、甘く見たこともあり、専門課程になってから付けが回って来て、試験の度にみじめ
な思いをしました。

専門課程は初めて習うものばかりですから、試験の前に一夜漬けをしようとして教科書を読んでも、
さっぱり解らないのです。
そんな訳で、生まれて初めて白紙の答案を出したんです。これがよほど、屈辱だったようで、
その後、40歳頃まで、よく、白紙答案を前にして苦しんでいる夢を見ました。(自業自得)

空手部では1年生の時、未だ、大学間の試合はなく、懇意な大学の空手部と交歓練習をしており、
武蔵工大は以前から同じ糸東流の青山学院と交流しており、その年に青学を訪れました。
青学の体育館で稽古着に着替えて、少し緊張して待っていたら、後ろから「のぼぅちゃん。」と
私の子供の時の呼び方をする者がいるんです。
驚いて振り向いたら、なんと、同じ町内で育った同年の、幼なじみのTちゃんが青学の空手着を着て
立っているんです。

三条高校へ通う時、同じ町内で同じ歳の者が、私とTちゃんともう一人居て、何時も三人並んで通って
いました。
三年間、毎日誘い合って一緒に通学していたTちゃんが青学へ入ったことは知っていましたが、まさか
空手部へ入るとは思ってもいなかったんです。
そもそも、三年間毎日一緒に通学していながら、空手について一度も話したことは無かったし、当然、
大学では空手部に入るなどの話をしたこともありませんでした。
(ただ、彼も高校では柔道部でしたので、潜在的な可能性はあったかのも知れません)
それが、なんと武蔵工大が交歓練習をしていた、たった1校の相手の学校の空手部に入っていたのです。
彼も私を見てビックリしたと言っていました。

武蔵工大では1年生で入部した時、同期の者が15名以上いましたが、三年生まで残ったのは6名で、
その中で私が練習を一番熱心だったためか(何しろ、勉強をしないで、練習ばかりしていたので・・・)、
3年生の夏休み明けに主将に指名されました。
当時は下宿に電話も無い時代でしたので、青学のTちゃんに「主将になりました。」と葉書を出した
んです。そうしたら、直ぐ、折り返して葉書の返事が来たんですが、なんと「私も主将になりました。」
と書いてあったんです。
これもあまりの偶然にビックリしたものでした。

なお,その頃、青学の空手部の彼の後輩がスカウトされて俳優になったと聞きましたが、それが
渡哲也です。


5 あだ名

これは空手部とは直接関係がないことですが、私のあだ名に付いて書きます。
大学へ入ったら、すぐ、寮に入りました。その寮は二子寮と言って、その年に出来た
(学校が購入した)ばかりの寮で、二子玉川園の遊園地の垣根の隣にありました。
古い建物でしたが、一階と二階に大きい12畳くらいの部屋が8室あり、全部で30数人
の寮生がいました。
出来たばかりの寮でしたので、寮長一人が2年生で、それ以外は全員が新入の1年生で、
一部屋に4人平均で生活していました。

私の身長は、176センチでしたが、当時としては大きい方で、寮生で私より大きいのは
一人だけでした。
私が、入学と同時に空手部に入ったので、夜遅くまで練習して来るし、帰ってから食堂
でご飯が余っていないか探して、残っていると、おかずがなくても醤油を掛けて食べる
とか、懇親会の時には飲み過ぎて倒れる者が多いなかで、最後までシャンとしていて、
酔っ払った人の手当てをしましたし、高校時代に柔道をした者が私の他に二人居ましたが、
の中では、私が一番強かったとか・・・、田舎から上京したばかりの若者達に取って、
そんな私がバンカラでゴツイ人種に見られたようなんです。

当時、丁度、怪獣映画のゴジラ公開されたばかりの時でしたので、私に付けられたあだ名
がゴジラだったんです。
今、ハンドルに名乗っているのは、そういう由緒ある(?)名前です。
ただ、私をゴジラと呼ぶ人は、この寮生だけでして、例えば大学の同級生にも、空手部に
も、他にはおりません。本来は、紳士であるからです。(?)
この項は、番外編でした。

6 試合

空手は、それまでは武道としての面が強く、試合は難しいと思われており、学校対抗の試合は一部の
大学間でしか行われていませんでしたが、2年生の時に、主に、日大、慶応、拓大、東大(当時は
東大も強かったのです)などが中心になって、流派に関係なく全国の大学を統括した試合が計画され
ました。
そして私が2年生の時に、始めて全国規模の大学対抗試合が行われました。

まず、第一回の関東選手権と、全国選手権大会が行われ、当校も4年生2名、3年生1名、2年生2名で
団体戦(選手5名)に出場しました。私は2年生の1人として参加し1回戦では、確か芝浦工大に勝って、
2回戦で日大に負けました。
この時の日大との試合で、当校の主将のNさんが相手に寸止めをしないで何回か当ててしまいました。
これが因縁で、次の年の三位決定戦での日大戦で、仲間が大怪我をすることになるのです。

その後の練習では、今までのやり方を試合向きに替えて、試合に勝つような練習をして第二回目の
関東選手権大会に4年生1人、3年生4人(この中の1人として)で出場しました。
今度は、どんどん勝ち進んで、とうとう準決勝まで行き、慶応に負け、三位決定戦で日大に負けて
4位になりました。

7 試合での怪我
初めて空手部に入部した頃、柔道では感じなかった、怖さがあることを知りました。
柔道には締め技がありますが、練習では立ち技が主でしたし、万一、締められても苦しく
なれば、どこかを叩いてキブアップすれぱ、落とされる(失神させられる)ことはないの
ですが、空手では寸止めをしないで一発入れられたら、瞬間に伸びてしまいます。
当時の空手は素拳のままで練習も試合もしましたが、相手に拳を当ててはいけないことに
なっていました。
当る寸前で止める、これを寸止めといいますが、それを守ることが原則になっている訳です。
自分は寸止めをしているのに、相手が止めないで攻めて来たら大変危険なことになります。
そして、体験から感じたのですが、普通の人(もしくは空手の弱い人)は、空手が本当に
強い人には、絶対に・・・、絶対に、逆立ちしても勝てないことを実感した次第です。

先の第二回関東選手権日大との三位決定戦の時のことでした。
日大の選手は、前の試合で、当校の選手に当てらていたので、明らかに突きを止めないで、
当てようとして来ていました。
私が先鋒(か副将)でしたが、あご(ボクシングで言うチン)に当てられて、一瞬意識を失い
ました。
わっーと言う歓声の中に、「外山タテッー・・。」と言う言葉を聞きながら意識が戻った
時には、知らないうちに片膝を付いていました。
すぐ、立てば立てましたが、意識がボケていては、そのまま立つと、また負けると思い、
しばらく間を置いて立ってから戦いましたが、後は、特に何もなく戦えました。この時は、
私が劣勢でしたが相手の反則で引け分けました。(当てたのが反則です)

ところが、この試合で、当校の選手が、凄い突きを顔面に受け、前歯を三本も折られるの
です。
空手では、顔面を狙う時は、必ず鼻と口の間の「人中」という急所を狙いますが、それが
よく口に当たるのですが、この時も口に当たって、歯が一本が折れ、一本は根元から抜け、
一本が半分抜けた状態になってしまいました。半分抜けたのが邪魔をして、口を閉められ
ない状態でした。直ぐ、口を開けたままの彼をマネージャーが歯科医につれて行きました。
当時は他の試合でも、時々、大怪我があったようです。(足の脛が折れたとか・・)
最近の試合を見ると、顔面にはマスクを、拳にはサポーターをしており、何よりも、
スポーツ化してポイント制で、細かく点を取るような判定をしていますので、怪我は少ない
と思いますが、当時の試合は恐いところがありました。

8 空手部の修行の結果

私は当時の身長176センチで、体重は最高の時には85キロくらいありましたが、空手をしてから体が締まり、
73キロくらいになりました。(今でも体重は変わりません)
元々、運動が苦手なのが治りました。
空手部の仲間と、運動部での腹を割った付き合いをしたために、一生付き合える友達が出来ました。
空手部は思ったよりは恐くありませんでした。(やがて、自分が部のヌシのようになったのですから、当たり
前かも知れませんが・・・)そして、私はやっと、どうやら一人前になれたようです。
でも、やはり、奥手だったようで、家業に入り、商売で飯を食っていけるかなと確信出来たのは、ようやく
30歳を過ぎてからでした。

9 空手部総括

空手部に、もし、番長タイプの者が入部すると、必ず、まともな人間になります。
番長だといって、どんなに強そうに、偉そうにしても、本当に強いというのが何であるか解るからだと思います。
1年後輩に、そんな気配の者がいました。
空手では組み手と言って、柔道の乱取りのように自由に戦う練習がありますが、そいつを可愛がってやろうと
思って、組み手になると、必ず「おまえ、来い!」と指名するのですが、「今日はお腹が痛い」とか、なんだ
かんだ理由を付けて、とうとう、私から逃げ切った奴がいました。



当時、部員は5〜60人くらいおり、練習には常時30人くらいが参加していました。
ところが、しばらく前の情報ですが、最近の空手部の状況は悲劇的で、部員全員で7,8人しかいないそうで、
少しきつく叱ると、すぐ辞めるそうです。
今の若い子は意地がないのですね・・・、とても、残念なことです。
今、マスコミに、時々、若者の傍若無人ブリが取り上げられますが、そんな連中に空手をさせると、必ずまとも
になると思います。
彼らは、甘やかされて育ち、ただ、我を強く出しているだけで、本当に強い者がどう云う者か知らないんです。
もし、本当の空手の猛者に出会ったら、こんなに強い人が世の中にいるのかと再確認することと思います。
柔道でも、ボクシングでも同じだと思いますが・・・、違うのは空手は素手の拳で練習も試合もしますので、
一番恐くて効果があるのではないかと思っています。

以上

私と空手その2へ

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