死に場所を求めた撃墜王


米軍は、日本海箪の暗号を完全に解読しし、周到にわなを仕掛けていた。連合艦隊司令長官・山本五十六(長岡市出身)と幕僚を 乗せた二機の一式陸上攻撃機は、そのわなに落ちる。  一九四三(昭和十八)年四月十八日年前七時半すぎ、プーゲンビル島上空。 待ぢ伏せていたロッキードP38十六機が襲いかかった。護衛の二〇四空・零戦六機の応戦むなしく、長官機は火を噴いで樹海に消 えた。 この間、わずか二分。 前線視察途上の、山本の壮絶な最期だった。  山本を守れなかった零戦隊六人の中に、一人の県人がいた。のちに「空中戦の神様」と称される新潟県東頚安塚村(現浦川原村) 小蒲田出身の飛行兵丁(飛長)杉田庄一である。  南太平洋の紺碧の(こんペき)の空で、雪国新潟生まれの少年飛行兵と連合艦隊司令長官の、生と死が交差した。このとき杉田、 十八歳。山本、五十九歳。  ラバウルに戻った六人には、かん口令がしかれた。 だがこの夜、杉田は同室の大原亮治(七八)=神奈川県横須賀市、丙飛会会長、当時(ニ二)に打ち明ける。「長官が、やられた」  杉田は二四(大正十三)年七月一日、秋作、イヨの二男として生まれた。イヨは大賀(中頚吉川町)実家に向かう峠で産気づき、 山中で杉田を産む。その日は米山の山開き。イヨは「この子は米山さんの授かりもの」とかわいがった。 家は、点在する棚田ながら三ヘクタール近くを有する大農。 杉田は学業も運動も抜群で、陸上短距離、スキー、相撲、弁論大会で活躍した。 木片を削って戦闘機の模型を作り、大空の勇士にあこがれる軍国少牢。杉田もまた、時代の子だった。  志願して四〇(昭和十五)年月、十五歳で舞鶴兵団入団。翌年一月、第三期丙種予科鰊(土浦)に入隊し、同四月卒業。筑波での 第十七期飛棟、大分での戦闘機専修を経て四二年四月、木更津の六空(のち二〇四空)に配属された。  ラバウル進出後の十二月一日、杉田はB17を撃墜する。自機の垂直尾貰をB17の機体にぶつけながらも、無事帰還した。「闘魂むき 出し」の撃墜劇は、ニ〇四空の語りぐさとなる。 □過 信□ 「だまっていろよ…実はなぁ…」。杉田のいつもの豪放さは消えうせていた。 何かあったなと感じてはいたものの、大原は、長官の死を打ち明けられて、やはり衝撃を受けた。  護衛しきれずに帰還した六人の思いはー中でも同郷の英雄の護衛という晴れがましい任務を与えられ、それを果たし得なかった杉 田の心中は、どのようなものであったろうか。 護衛機の少なさについては、それ以上の護衛を山本ある。確かなのは日本側に過信があったことだ。一帯の制空権が日本にあると 信じていた。暗号が解読されていようとは夢想だにしていなかった。  山本の死は極秘にされ、大本営発表は一カ月以上たった五月二十一日。六月五日、東京・日比谷公園で国葬が、翌六日には分骨を 迎えて長岡市葬が営まれた。  零戦の六人は、死に場所を求めるかのように奮戦していた。山本の死からニカ月余の七月一日までに四人が戦死、一人が重傷。残 った杉田も八月二十六日、エンジンに被騨、大やけどを負い、落下傘で脱出。ラバウルの特設病院から内地に転送される。 □懲 罰口  長官を護衛していた六人の短期間の相次ぐ死傷。このため戦後、「懲罰としての連日の出勤命令があった」「六人を死に追いやる のが海軍省上層部の方針だった」との説が、戦史家などの間に流布された。  六人のうちの一人、交戦で右手首を失い、内地に送還さ約た柳谷謙治(八〇)東京・世田谷区=は言う。「確かに、それまで数日に 一度だった出撃命令が、連日のように下された。汚名をそそげということだったのだろうか」と。 杉田から長官機撃墜を直後に打ち明けられた大原は「懲罰などということはあり得ない」と断言する。「六人はその後の昇進もみ なと同じ。連日の出撃は、六人以外も同じ。それだけ戦況が悪化していた」  「われわれはコマにすぎない。連日の消耗戦の中で、国家のためなどと大仰なことを考えている暇などなかった。毎日のように、 仲間が死んだ。みな『今日は○○のかたき討ちだ、よ−し、やっちゃるぞ−』と飛び立っていったんです」 □最 期口  杉田はリハビリ後、大村空教員となるが、四四年三月、二六三空に配属されてグァム、ペリリユーを転戦。同七月にはニ〇一空に 編入され、比島戦線で激闘を続ける。四五年一月、四国松山で再編された三四三空の三〇一飛行隊に転属となり、上飛曹としてて紫 電改で本土防空に当たる。  飛行隊は愛機にちなみ、紫色のマフラーをしめた。 松山の料亭の女将が、自身の白むくの花嫁衣装をほどいて染めてくれたものだった。各区隊(四機編成)の信条を、女学校の生徒が 自らの名とともに黄色い糸で刺しゅうしてくれた。杉田区隊の刺しゅうは「ニッコリ笑へば必ず墜す」。  「あの信条は、杉さんの『平常心を持て』という教えでした」。 グァム時代から杉田の列横を務めた笠井智一(七三)=兵庫県伊丹市、松山から別磯となった田恒春(七二)=栃木県田沼町=は、杉 田を「部下思いの豪傑」「空中戦の神様」と称賛してやまない。だがこの二人にさえ、杉田は長官機護衛の話を、していなかった。 杉田の最期はあっけなくやってきた。九州鹿屋、四年四月十五日午後三時前。「敵編隊、北上中」の情報が入った。杉田らは待機所 を走り出て、柴電改に飛び棄った。 田村は、杉田が前方南上空を指さすのを見た。 けし粒ほどの敵編隊がキラキラと光っていた。  杉田機は砂煙を上げて発進した。だが敵機の一部は既に後方上空に回り込んでいた。発進中止命令が出た。 グラマンF6Fが、杉田機の後方から機銃を浴びせた。 杉田機はぐらりと傾き、黒い煙を噴いて基地の南瑞に墜落、炎上した。 墜落現場に駆けつけた田村は、杉田の変わり果てた姿に、息をのんだ。 □遺 骨口  杉田の戦死は全軍布告され、二階級特進して少尉。 公認撃墜個人七十機、協同四十機。だびに付され、遺骨は丁重に郷里に届けられるはずだった。だが、同年秋、実家に届いた骨箱に 骨はなかった。父秋作は、骨箱を持参した地区役員を怒鳴りつけた。母イヨは夜中に骨籍を開け、泣いた。  あの戦争とは何だったのだろうかー。列機だった田村は言う。「残酷で悲惨なかげで今の平和がある」。 笠井は語った。「やらなきゃ、やられる。生と死のやり取りやった」。六機の護衛戦闘機の、ただ一人の生き残りである柳谷は「無 残なもの」と言った。  七八(昭和五十三)年七月一日、杉田の誕生日。「生きているうちに」とイヨが願っていた鹿屋(現自衛隊基地)への訪問が、笠 井らの尽力で実現した。草の生い茂る戦死の地で、イヨはうずくまって手を合わせるだけだった。その地の砂は、小蒲生田の杉田の 墓に納められた。(文中敬称略) メモ 解読されていた暗号  <孔雀>1942(昭和17)年、米軍は日本海軍の戦略D(その後『呂』次いで『波(は)』)暗号の解読に成功。 山本五十六の行動予定は「波」で打電されたが、すぐに解読された。乱数表は43年4月1日に更新されたものの、基本構造は変わらな かったため見破られた。米海軍中将ハルゼーは、山本を孔雀(くじゃく)に例えて、待ち伏せ攻 撃を命じた。長官機を撃墜したのはT・G・ランフィアー大尉ら、杉田を鹿屋で撃墜したのは空母インティパンテンスから発進したR・ A・ウニザーアップ少佐だった。  <家族>小蒲生田の杉田の生家は、長兄守家が76年に亡くなり、翌年上越市に移転、未亡人と子息が継いでいる。 杉田の3歳下の弟で、14歳の若さでやはり海軍に志願した井部正昭(71)=大阪・豊中市=は、舞鶴の五老砲台に配属されていた43 年秋、杉田の訪問を受ける。「舞鶴海軍病院にいた兄が、訪ねてきてくれたんです。やけどの跡が痛々しかった。両手の指の問を 切開し、指がよく動かせない状態でした」。杉田は言った。 「わしには翼があるが、おまえは亀と同じ。気をつけろ」。 井部が「兄さんこそ」と応じると「わしは死なんのだ。不死身だ」と答えた。そして「言うなよ。わしは山本長官護衛の6機の1人だ った」と打ち明ける。父秋作は54年、母イヨは92年に没。杉田の8歳下の弟健吉(66)=東京・足立区=は「兄らへの連日の出撃命令 は、懲罰だった」と考えいる。(新潟日報11/5/22号より転載)

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