ある中部のものづくり関連研究会で三菱重工竃シ古屋航空宇宙システム 製作所 史料室長 岡野 充俊氏が秋水のことが詳しくお話になったそうです。 次は、そこでお聞きした話です。(参加した方から情報を頂きましたが、文責は私にあります。14/3/30記) 第二次大戦の後期に、アメリカでB29が開発さて日本とドイツに対する爆撃に使われました。 それに対抗するためにドイツはロケット戦闘機Me163を開発しました。 日本も、アメリカに勝たねばなりませんので、このロケット戦闘機を国産しようと思い立ちます。 そこで、日独技術交流でドイツへ図面やら技術やらをもらいに行く事になり、潜水艦二艇がドイツに遣わ せます。 二艇で行ったのは途中爆撃うけるといけないからで、遣唐使船を数隻派遣したのと同じ考えです。 行きにはシンガポールに立ち寄って生ゴム・すず・金の延べ棒を満載し、ドイツに向かい図面と交換する ためです。そして図面を入手して帰還しますが、やはり1艇は喜望峰で攻撃を受けて沈んでしまいます。 再び、シンガポールに立ち寄り、ここから空路トランク一杯分の図面が日本に運ばれたそうです。 そして秋水として初めて海軍、陸軍合同で開発されることとなりますが、機体は海軍、エンジンは陸軍主 導と決められ、昭和19年8月設計をはじめ4ヶ月で試作が完成します。 当時、試作機はオレンジ色。量産機は、零戦のような緑の予定だったそうです。 名古屋の大江で設計、製作されましたが、燃焼実験等は松本で行われました。 また、分散生産で小松、富士宮、日飛・富岡、山形、日産、富士飛行機などでも生産されたようです。 この秋水については全幅9.5、全長6.05、自重1.5 最速900、飛行時間5分でしたが、参考に零戦のそれは 全幅11、全長9.12、自重1.9 最速560、飛行時間8〜10hでした。 秋水の目的は、B29の機団の上まで、ほとんど垂直に近く一気に上昇して、飛行が5分しかないので編隊 の上で反転して爆撃機を攻撃して、そのまま滑空して帰ってくる方式でした。 さらに、飛ぶ時は車輪を利用しますが、離陸後に空中で車輪を落とし、帰りはソリが出てきて着陸す るようになっていました。ですから、草原でしか着陸できないという事でした。 また、機体はベニヤ板でしたが、といってもホームセンターに売ってるベニヤとは違うそうで当時の技術 を結集した合板でした。 昭和20年7月いよいよ横須賀で初飛行テストをしましたが、45度の急角度で上昇し、高度400メートル でエンジンが突然停止して架空して着陸しようとしましたが、墜落して操縦士の犬塚大尉は殉職されたそ うです。(これは実際に見た方の話を先に書いています) エンジンが停止したのは急角度だった事と加速度が強かったために、燃料タンク内の燃料が後方に偏り、 供給がストップしたためと言われます。(これは項は筆者の記憶です) そして昭和20年8月終戦と共に資料は米軍によって没収されたそうです。 この秋水の燃料は過酸化水素でしたが、昭和19年10月ごろから市民に白金を提出するよに通達が発 せられ、この白金が過酸化水素の電極に使われたそうです。 秋水の技術が幸か不幸か現在のH2ロケットにも影響を与えたことは確かなようです。