本土での空手の発展について

沖縄空手を適切に解説した書物がありますので、次に引用します。
(1979年発行 新星出版社刊 笠尾恭二著「写真でみる・空手入門」より)

「現在の沖縄における主要流派は剛柔流(ごうじゅうりゅう)・上地(うえち)流・小林(しょうりん)流・松林(しょうりん)流である。本土における主要流派は剛柔(ごうじゅう)流・糸東(しとう)流・松濤館(しょうとうかん)流・和道(わどう)流である。
このほか神道自然(しんどうじねん)流、少林寺流など多数ある。これらの系統は過去にさかのぼると大体沖縄の首里手(糸洲安恒ら)、那覇手(東恩納寛量ら)の二つに分類される。二系統を合して沖縄手あるいは琉球拳法と呼ぶことができる。そして琉球拳法の母体は中国拳法ということになる。首里手は中国拳法にかなり沖縄独特の工夫が入っていると思われるので古流系統と見ることができよう。那覇手の大成者といわれる東恩納寛量は此較的近代の中国拳法を伝え、東恩納の高弟宮城長順が日本空手道最初の流派名である剛柔流を名のった。上地流も大正時代に伝わった中国拳法を母体としている。糸東流は摩文仁賢和が糸洲と東恩納両師の頭文字を取り、両派の長所を結合させることをめざして開いた流派である。松濤館流は沖縄の唐手を日本に紹介した最大功労者船越義珍の系統をいう。和道流・神道自然流は古流柔術の影響が強いが船越系統から派生したものである。開祖大塚博紀、小西良助両師範は今なお健在である。こうして見るど拳術の歴史そのものは古くとも、日本空手道の流派はごく最近になって登場したものであることがよく理解されるであろう。一流を開くのは偉大なことである。しかし古来からかくれ武士とも呼ばれる無名の拳の修業者が多数いたことを忘れてはならない。無名であるがゆえに一切の利害に束縛されず、一身によく正拳を体得しうるともいえるのである。
諸君はたとえどの流派から空手道の門をくぐるにしても、究極の原理がみな同じであることを知るようになるだろう。諸君が自己の流派に誇りを持つと同時に、また他流についての認識を高め、やがては流派をのりこえていってもらいたいと私は願う。」

私が現役の頃、拓大・慶応・早稲田・法政が松涛館流で、日大・東大・明大なとが和道流でした。
私の武蔵工大は糸東流でしたが、関東では珍しくて、東洋大学が同じ糸東流でしたので監督と話をした覚えがあります。当時の最強の学校は拓大でした。(関西には糸東流がありました)
剛柔流は立命館がそうでしたが、強よかったようです。
なお、武蔵工大は私の辞めた次の主将の時に松涛館流に入り、当時の松涛館流の全国大会で優勝したばかりの金沢弘和さんに指導して頂き、その後、金沢さんが国際松涛館流を開祖された時にそこに移っています。

本土に沖縄空手(当時は唐手と言ったらしい)を最初に本格的に紹介したのは松涛館流の創始者の船越義珍と言われ、大正12年(1922年)に東京で演技をしたのが評判を呼んで指導を始めたと言われます。
今、松涛・松涛館を名乗る会派と空手協会を名乗るものがこの直系です。

今、一斉を風靡している極真会の大山さんも最初松涛館で学び、後に剛柔流に学んだといわれています。
なお、剛柔流と糸東流は沖縄からの直系のようです。

沖縄に行って見ると首里と那覇は直ぐ近いのですが、空手に対する考え方が違ったようで、首里ではどちらかと言うと軽快さとスピードを重視したのにたいして、那覇は体の剛健さを鍛える方を重視したように思います。
その一番の違いは那覇系の剛柔流には息吹(いぶき)という筋肉を増強するために、呼吸法を伴って力を入れゆっくり演舞する型があるのに、松涛館と糸東流には息吹という考えがなかったように思いました。

次は沖縄県の公式ページで沖縄空手を解説しています。

次は「格闘技を学ぼう!」というHPの中で 空手を解説したページです。
(平成13年8月13日記)



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