ジャイアント・馬場 その4


  同年の仲間の席で、ジャイアント馬場に近しかった友達のMが隣に座りましたので聞きました。

−馬場の奥さんはどうして、三条をあんなに毛嫌いするのだろう・・。

M「一番の原因は、馬場がプロレスラーとして有名になる過程で、三条の人が一体、何をしてくれたか(何もしてくれなかったでしょう)、と思っているようだよ。」
M「それから、三条での馬場の興行権を持っていたのは同期生のFだったけど、その前は、金物問屋のHさんだったんだよ。その時には、Fは全く発言権がないくらいに、馬場については、そのHが抑えたいたんだ。
ところが、このHさんが馬場の興行を主催しながら、売上げ金を持ち逃げしたことがあるそうなんだ。」(このHさんは、丁度私が会社に入った頃、新しいセンスの金物問屋として、業界に新風を巻き起こしていた人なのですが、地に足が着かなかったのか、後に倒産します。この倒産時に、もしかしてお金に困られていて、このようなことがあったのかも知れません)

M「だから、奥さんは、三条の者には、まったく目もくれないらしいよ・・・。昨年の1月17日の後楽園の馬場の一周忌の式には三条・燕からバス二台で行ったんだが、座る席さえ、ろくに用意されていなかったそうだから・・・。」

写真は地元の新聞に載った中学三年生の時の写真です。
名前を書いてあるのは、私が同じクラスになったことのある人達です。















以上は馬場と懇意な友達から聞いた話ですが、馬場が死亡したことを報じた地元の新聞記事がありましたので次にご紹介します。

新潟日報2000年2月2日(火曜日)号より

 日本プロレス界のスターで全日本プロレスの社長でもあるジャイアント馬場さん(本名、馬場正平=ばば・しょうへい)さんが1月31日午後4時4分に東京都新宿区の東京医大病院で肝不全のため死去していたことが1日、明らかになった。三条市西四日町出身。61歳。自宅は東京都渋谷区恵比寿2−28。本葬の期日は未定だが、近親者らによる密葬が2日行われる。馬場さんは 今年1月8日、癒着性腸閉塞の手術を受け、入院加療していた。

◎鶴田さんら沈うつ会見

 東京六本木の全日本プロレス本社事務所には、馬場氏に異変の情報が流れた午後四時すぎから続々と報道陣が詰めかけ、すし詰め状態となった。事務所側は当初、死去の情報を否定していたが、午後六時に「一時間後に記者会見」と発表。まもなくジャンボ鶴田氏らが沈うつな表情で事務所に入った。
 会見では、力道山の息子でもある百田光雄氏、一番弟子でもあった鶴田氏、人気レスラーの三沢光晴氏が並び、まず百田氏が死去に至る病状の経過を詳しく説明。鶴田氏は「リングにいるだけで存在感のある人だった。レスラーとしても、人間馬場正平としてもかけがえのない人だった」と言葉を絞り出し、三沢氏も「早く復活してほしいと思っていた。あんな人はもう二度と出ない」と、言葉少なに語った。
 百人あまりに達した報道陣のため、会見は三度に分けて行われ、あらためて故人の根強い人気をうかがわせた。

■突然の悲報に地元絶句

 「信じられない」「ずっと現役を続けられると思っていた」−。一日夕方、越後が生んだ世界の巨人・ジャイアント馬場さんの突然のふ報に、出身地・三条の街は偉大なヒーローとの別れを惜しむかように涙雨に濡れた。同級生らゆかりの人々のまぶたに、馬場さんの雄姿と朴とつに語る表情が浮かんでは消えた。

◆同級生、恩師
 三条第一中、三条実業高の同級生で一緒に野球をやっていた三条市北入蔵、無職佐藤正司さん(62)は、「入院していたとは聞いていたが、まさかこの世を去るとは…。残念です。同級生と『近いうちに見舞いに行かなければ』と言い合っていたんだけど。地元でプロレスの試合があると、仲間と三条実業の応援歌を歌ったりしてたのに」と声を落とした。  「馬場は中学から高校一年まで一塁手、二年から投手をやっていた。私は三塁手。野球だけでなくて運動神経は抜群で、夏は野球、冬は卓球、バスケットと活躍していた。でも、背が大きいせいか走るのは苦手だった」と当時を懐かしんだ。また、「親孝行で家の八百屋をよく手伝いしていた」と馬場さんの人柄をしのんだ。
 馬場さんの出身校三条商業高校(旧三条実業高)の三輪博校長は馬場さん死去のニュースを聞くと「エッ」と絶句。「何年か前、NHKの番組で先輩の元気な姿を見ていたので信じられない。非常に残念な思い。今はめい福をお祈りしたい」と語った。
 馬場さんの卒業した旧三条実業高校機械科で、馬場さんに機械工作を教えていた三条市本町の高橋小一郎さん(71)は高校時代の馬場さんを振り返り、「体はとにかく大きかったけれども心の優しい子だった。昔の教室の机はいすと一緒になっていたため馬場君の体が入らず、馬場君だけ特別に机といすが別々になっていたものを使っていたことを印象深く覚えている。プロレスで活躍する姿を見守っていたが、また一人惜しい人材を亡くした」と沈痛な面もちで語った。

◆生家、近所の人
 馬場さんの生家があり、今も二人の姉が住んでいる三条市西四日町は冷たい雨に沈んでいた。生家の八百屋「梅田屋商店」は、経営者の長姉の馬場ヨシさん(73)が東京に出向いているため、主のいない家で時折飼い犬がほえるだけ。近所に住む次姉の武田アイコさん(64)宅もアイコさんが上京。家はカーテンを閉ざし、家族がひっそりと馬場さんの死を悼んでいる。生家の隣に住む女性(81)は「正ちゃんは本当に親孝行だった。小さいときから、お母さんのリヤカーを引いて手伝いをしていた。東京で忙しくなってからも、三条に来たときは必ず両親のお墓参りにきていた。いい男が亡くなってしまった」。雨が降り続く「梅田屋商店」の軒先で、突然届いた悲しい知らせに肩を落としていた。

◆三条市長
 三条市の長谷川長二郎市長も急な悲報に衝撃を受けた様子。「昨年の暮れにテレビで拝見したときにあまりにやせていたので体が悪いのかなと心配はしていましたが…。本当にびっくりしました」と絶句。
 「プロレスで世界に雄飛し三条市の名を高めてくださったことに感謝しています。以前、テレビの番組で来られたときにお会いしたときに、『帰ってきて幼な友達や実家の近所の人に会うのが楽しみなんです』と語っていたことが印象深く記憶に残っています」と在りし日の馬場さんの思い出を語っていた。
 また、西蒲吉田町出身で元プロレスラーの小沢正志さん(51)=キラー・カーン=は「まだ若いだけにびっくりした。日本プロレスで一緒だったのはわずかな期間だが、新潟県人らしい人の悪口を言わない、温かい人だった。もうすぐ(リングに)復帰するような話が新聞に書かれており『自分も頑張らなければ』と思っていた矢先だったので残念だ」と沈んだ声で話した。

◆キラー・カーン
 元プロレスラー「キラーカーン」こと小沢正志さん(西蒲吉田町出身)の話 まだ若いだけに(死去に)びっくりした。日本プロレスで一緒だったのはわずかの期間だが、新潟県人らしい人の悪口を言わない、温かい人だった。もうすぐ復帰するような話が新聞に書かれており、「自分も頑張らなければ」と思っていた矢先だったので残念だ。

以上

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