ジャイアント・馬場 その3


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  以下の記事は、ジャイアント・馬場の一周忌を記念して地元の日刊新聞、越後ジャーナルの99年1月17日号に載ったものを転載したものです。

ジャイアント馬場
三条が生んだ永遠のヒーロー

今だから話せる思い出      燕市白山町ニ 岡田健一さん

 三条が生んだ永遠のヒーロー「ジャイアント馬場」。リングの上で戦う現役プロレスラーとして、今年一月三十一日、六十一歳で人生の幕を閉じた。きょう十七日、東京・日本武道館で、馬場さんとのお別れ会が開かれるなど、在やし日の馬場さんを思い出す人や、全国各地のファンも多いことだろう。
 その中の一人で、プロレスラー「ジャイアント馬場」というよりも、馬場正平さんの高校時代からの親友として、長年にわたり「線の付き合い」をしてきた、燕市白山町二、岡田健一さん(六二)に今だから話せる思い出を聞いた。

  コンプレッスゆえの線の付き合い

 岡田さんと故馬場正平さんの{線と線のつき合い」は、三条実業高校一年生から始まった。同級生ではなかったが、野球部一員として同じ時間を過ごした。岡田さんは「今だから言えるのは、彼自身『大男』 に対するコンプレックスを持っていたということ。私のほ かに言い切れる者はいない。体が大きくなったのは、小学校二、三年頃からで、足駄を履いそも足が半分出るほどだったと、彼は私に言った」と青春時代を振り返る。
 馬場さんは、体が大きいため、ケンカ相手になるようないじめはなかったが、「視線」で感じるいじめを感じていた。自分で振り返って確認したわけではないが、すれ違った相手が、必ず振り返って見ているということを背中で感じていた。
 また、岡田さん自身も二歳の時に「股間脱臼」で足を悪くし、岡田さん自身に対しても多くの人が振り向いた。小学校五年から六年にかけて「なぜこんな体にしたんだ」と、自分の親を責めてしまったことも。
 「同じ体のコンプレックスがあり、彼は私に相談してきた。体が大きいことは、一部においては、恵まれているようだが、被の心境は決してそうではなかった。コンプレックスがあり、線の付き合いをしたことは、言わずとお互いの気持ちを理解できたから」  小さい頃から野球が好きだった岡田さんは、野球部のマネジャーとして、スコアに記録するなど、ベンチから選手のようすを見てきた。
 「野球選手として認められ、読売ジャイアンツに入団し、その後プロレス界に入った。 気がよくて、優しかった馬場。彼の母親は格闘技が嫌いで、反対していたが、力道山の門を叩いた。よく『スカウトされた』などと言われているが、自分から頼みにいった。三条に帰りたくなかったんだ。『やっぱりダメだった』と言われるのがいやだったし、当時、 東京から電車で六時問もかかり帰りたくなかった」と、親友だから分かる馬場さんの気持ちを代弁した。

ふるさと三条に役立てること・・・

 野球選手からプロレスラーに転身し、アメリカに渡った馬場さん。「行きの片道切符しか与えられず、一円もなかった。昭和三十四年から三十七年までの三年間、アルバイトをしながらプロレスラー修行をした。リングの上で活躍すをプロレスラーは、自分と同じような体格で嬉しかったようです。彼は、リングの上が一番楽しかった。生涯現役でいたかったんだ」と、馬場さんの足跡をたどった。
 地元三・条での興業は、昭和三十九年七月、三条商業グラウンドに特設リングを設置して行った。馬場さんの同期が実行委員となり、二万人の観客を動員した。昭和五十年前半にも、同期が力を合わせて、燕市で試合を行った。
 馬場さんにまつわる思い出を語る岡田さんは「彼との付き合いは、彼が亡くなったところで終わりなんだよ」と、さみしそうな表情を見せた。
 岡田さんと馬場さんは、昨年七月に会ったのが最後のお別れになってしまった。
 七月一日からの一か月間、法務省が実施する社会を明るくする運動が行われたが、一日新潟保護観察所長としてパレードなどに参加し、古町を練り歩いた。
 「パレードが終わり、食事をしようと上着を脱いだら、滴り落ちるほどの汗をかいていたので、私も付き人も『ワッ』と声をあげたほど。『すぐにデパートに行って買って来い』と付き人に言ったが 『合うサイズがありません』と言う。
 『そんなに汗が出るなんて、どこか悪いんか?』と聞いたら、『徹マンしたっけな』と言っていたが、今思えば、病気が進んでいたのかも…」 と悔しげ。
 新潟発の新幹線で東京へ戻る時、馬場さんはグリーン車だった。
岡田さんは普通席のSキップだったが、グリーン車に乗った。
 「車掌がやって来たから、『燕三条駅まで買いますよ』とお金を出したら、『もういただいております』と言われた。そういう優しさを持っている男ですよ」と、馬場さんの優しさに触れた。
 その時、岡田さんは、燕三条駅で降りて、東京に向かって走る車窓の外から馬場さんを見送った。
 「いつもは、あごを突き出すような格好で挨拶するのに、その日だけは、手を振っていた。二人で喫茶店に寄った時でも、二時間でも三時間でも喋らずにいるのに、その目だけは、よく喋り、雄弁だった。自分の最期が分かったのか…」と遠い目をした。
 また、子どもがいなかった馬場さんは、岡田さんの二人の娘をわが子のようにかわいがっていた。

  「昔、後楽園球場で、あるアイドルのコンサートのチケットが完売していたが、『何とかならないか』と相談したら、娘たちのために、ネット裏の記者席の一番いい席を用意してくれた。亡くなる前にも、娘たちに会うと『元気か』と気さくに声をかけていたようですよ」と、馬場さんの人柄のよさがうかがえる。
 「本当に曲がったことがいやで、だまされてもだますのは嫌いだった。馬場は、リングの上で、コンプレックスを脱ぎ捨てられる時が、一番幸せだったと思う」と馬場さんを語った。
 葉巻にまつわる話も。「葉巻が好きで、いつも欠かさんかった男が、まったく吸わなくなった。ガンで亡くなったフリーアナウンサーの逸見政孝さんが入院中のことで、花もなにも持たずにお見舞いに行き、『今日は何も持ってこなかったが、タバコをやめると約束する』と言った。
その後、富山県高岡市での興業中に、逸見さんの訃報の連絡が入った。電話を受けながら、ふと気が付いたら右手には、火を付けたタバコがあった。禁煙の約束を思い出し、『オレはダメなんだよな』と、灰皿にタバコをねじり付けて捨て、この日から葉巻をやめた。吸わないのを見て『体でも悪いのか?』と聞いたらそんな話をしていた」
 そして、「最後に話した時、『オレも還暦過ぎたんだから、ふるさと三条のためになるようなことをしなきゃな…。岡田、何か役に立てることがあったら言ってくれよな』と言っていたのに…」と、あまりにも早く逝ってしまった馬場さんの思い出を結んだ。

きょうお別れ会「ありがとう」

 きょう十七日、東京・日本武道館で、三条が生んだ世界の巨人、ジャイアント馬場選手お別れの会「ありがとう」が開かれる。
 同会は、ジャイアント馬場さんをしのぶ会が企画し、岡田さんはじめ、五人が代表世話人。知人や友人、ファンらが集まり、生前の活躍を偲びながら冥福を祈る。
 また二十五日午後九時から、日本テレビ系列のテレビ新潟TeNYで、ジャイアント馬場さんの「知ってるつもり‥」を放送する。

以上

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