ジャイアント・馬場 その2


  ジャイアント馬場記念館

新潟県は他の県に比べると、観光に対する観念が少ないと思っています。
馬場については、子供の時から知っているので、その連続で見ていましたから、有名人で あると知っていても、あまり、ピンと来なかったのですが、この度の死亡後のマスコミの 騒ぎを見て、改めて、その偉大さを知らされたと思っています。
恐らく、ほとんどの三条市民が同じ感じを受けていると思います。
先の市長選の時のことですが、私たちが担いだ高橋君が当選したら、同級生だったことも あるし、ジャイアント馬場記念館を作ればいいじゃないかと仲間に言いましたら、
同期のS君とM君が言いました。
「馬場が金を1億円でも、残していれば出来るけど、そんなに残さなかったろうな・・・。 だって、外人にギャラを払ったら、俺の取り分が無くなったと、よく言っていたくらいだ からな・・・。」とのことでした。

ところが、最近の新聞報道によれば、遺産が8億7千万円もあったとのことです。(12年1月 22日の新潟日報)恐らく、自分が呼んだ選手には興業での儲けががどうであれ、必ず契約ど おりに支払をしたから、特に外人などには絶対の信頼があったそうなので、はじめの頃こ そ、取り分がなくなったことがあったでしょうが、やがて、その信頼が利益につながった のではないでしょうか。

馬場と私

私自身は馬場とは同級になったことはないのですが、中学1年の時に三条第一中学校は10ク ラスもあって校舎が不足したため、その内の3クラスが四日町小学校に間借りをして通わさ れました。
その3クラスの教室は小学校の教室と離れた二階に並んでいたのですが、そこで一年間3クラスだけでおりましたが、その中に馬場もいましたので、お互いに顔くらいは知っていました。
後に、私は武蔵工業大学に入り空手部に入りますが、多摩川の土手の近くに学校があり、 天気の良い日には屋外グランドで練習していました。
練習前のランニングに良く多摩川の土手を走って巨人軍の多摩川練習場までを走って往復しました。そんな時に二軍としてそこで馬場が練習をしていたのです。
最初は金網の近くに行って声を掛けたのですが、彼も私の顔くらいは知っていたので、やあと言って近寄って来てくれました。
それ以来は、土手を走りながら手を振って「ばばぁー!」と叫んで、飛びあがったり、二段蹴りをしたりして挨拶しましたが、馬場はその度に手を振って応えてくれていました。

その後の夏休みに三条の本屋で、ばったり会いましたので、私は「今度、玉川で会ったら 、サインボールをもらえないかなあ。」と言いましたら、上から見下ろしながら、「その 時、余っていたらな・・。」と言いました。
その時は、ああ、彼らは、人に上げるボールの数に限りがあるんだな、くらいに考えてい ましたが、今、考えると、普通なら「ああ、いつでも上げるよ。」と言いそうなのを、真 面目で決して安請け合いしない、彼らしい言い方だったんだなと感じています。

また、巨人軍では二軍暮しでしたので、給料が安くて、体が大きいし、幾ら食べてもきりがない年頃なのに、小遣いが足りなくて食べれないため、川上さんや千葉さんなどの現役スター選手にご馳走になっているとの話を当時聞いたことがあります。

馬場と仲間達

S君が新婚旅行で白浜温泉へ行った時のことです。
「旅館の中居さんたちが忙しそうにしているので、何で、そんなに忙しいのか聞いたところ、『今、プロレスの人達が泊まっているんです。』
と言うし、馬場もいると言うので、馬場なら俺の同級生だと言ったら、中居さんはウソだ と思ったようで・・・、本気にしないんだよなあ・・。」
「それで、レストランに居ると言うので行ったら、丁度、後に奥さんとなる人と食事をし ているんだよ。俺を見て、びっくりしていたよ。もう、その時から、実質夫婦だったんだ ね・・・。」
「彼の歌を聴いたことがあるけど、上手だったよ。何か井戸の底から聞こえるような声だったなあ。」
「馬場と懇意だったFが亡くなった時、俺が弔辞を頼まれていて、式の間際に、やっと書 き上げて行きました。
その時に、馬場は付け人を3人連れて、式の始まる5分前に来て、弔辞を言い終わったらさ っと帰っていったんだけど、俺の前に、とても上手に言うんだよ。書いたものを見ないで ・・、あんまり彼が上手いもんだから、次に言う私はすっかり上がってしまってさ・・。 」

Fと私は小学生低学年の時同級で、1年生の初めにいじめられた男だったのですが、その後 、中学3年の時にも同級になっており、同学年では有名な暴れん坊だったと思っています。 彼が中学の野球部で馬場と一緒で、その後、馬場が巨人軍を退団して、最も落ち込んでい た時に、連日、手紙を出して励ましてあげたそうで、この時のことを馬場がすごく感謝しいて、以後、このFが馬場の三条での一番の親友になります。
馬場は地元でも、度々興行をしましたが、三条での興行権は、最後までFに全権を任せて いました。

今の三条市長が私の同期の仲間なので、市長選挙の時に手伝いをして、私が同期生の纏め 役をしましたが、そのお陰で、他の中学を出た方とも知り合いました。
11年4月1日の三条第一中学校と第二中学校卒(馬場はニ中でした)の幹事会でのことです。 隣合わせた方が「実業高校の時に、馬場と同級で席が隣だった。」と言いますので、馬場 はどういう人でしたかと聞いたら、「兎に角、おとなしかった。」と言っていました。
そして、2年生の時に、巨人に入って中退したのだとのことでした。
実業高校の同期生のH君の話、
「高校での馬場はピッチャーとして、それほど優秀ではなかったのだが、彼が巨人の名を 表す大きな男だったので、巨人軍の看板になるということから、スカウトされたんだよ。」

馬場と三条の関係

さて、銅像の件ですが、馬場が亡くなった後に、当時の三条市長が弔問に訪問したそうで すが、丁度、奥さんが外出中だったので、お参りだけして帰って来たそうです。
ところが、奥さんが三条には悪い印象を持っているらしくて、聞く所によると、この時の ことにも文句を言っているらしいとか・・・、聞きましたから銅像の建立など、とても出 来るような状態ではないとのことです。

どうして奥さんが三条を嫌いなのかと、S君に聞いたら、
「馬場は巨人軍に入る時には、市長を始め、市を上げての送別をしたのに間もなく、退団 したので、三条には帰って来にくかったはづだよ・・。
奥さんがそんな話を聞いているからではないか。」とのことでした。
ただ、奥さんは、馬場とあれだけ親しかったFのことを大嫌いだったそうですので、他に も理由があるのかも知れません。

三条市民は、全て、昔からの馬場を知っていますので、先に書いたように身近に感じてい たため、他の地域の人達より、あるいは、有名人として尊敬する気持ちの表現が少なかっ たかも知れないので、その辺に何かがあるのかも・・・、と思っています。

以上

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